私の尊敬し敬愛する登山家の一人に、槙 有恒(まきありつね)さんがおります。1894年(明治27年)生まれ、あのアイガーの東山稜の初登攀、ネパール・ヒマラヤのマナスル(8156m)の初登頂、さらにはカナディアン・ロッキーのマウント・アルバータの初登頂と、時の隊長を勤め、輝かしい記録を樹立し、日本の山岳界に本格的なアルプスの登山技術を持ち込み、その興隆発展に多大に寄与し、黎明期におけるスーパースター的存在の人である。
登山の内容は語るまでもなく、圧倒さるばかりであるが、私が尊敬、敬愛する要因のひとつは、彼の書く文章である。その文章はいつもいぶし銀の如く、重厚で深く熱い。底深くに、暖かくおおらかな人間愛を宿し、山々に、人々に慈愛のまなざしを注ぐ。だから彼と山行を共にした山仲間とは、深く終生変わらぬ友情を持続する。とにかく実に素直であり謙虚さがいつもにじみ出ている文章である。
現在、山梨県文学館長でおられる作家の近藤信行先生がこのようなことを書かれています。それは昭和31年6月、マナスル登頂後、カトマンズの歓迎会における、槙有恒の言葉である。 「その会合で私は、マナスルを征服して来たのではない。この壮麗な山との親しみの交わりを深めて帰ったのであるとのべた。」と槙はかいている。そこに居合わせた人々は、この東洋の登山家の発言に深い感銘をうけた。
登山史家レッヒエンぺルクは槙の言葉を次のように書き取っている。「私たち日本人は、勝利とか攻撃という言葉に非常に嫌悪を感じる・・・・高峰に登るのは、自然への巡礼と同じことである。人間、精神、自然は一つの宇宙の一部である。私たちが山に登ろうとして出発するとき、私たちはけっして戦いに行くのではないのだ・・・・」8000m峰の初登頂に成功した後で、自然と人間の融和を語ったということは、日本人の登山を考える上で、きわめて象徴的な話である。
ことばは人をつくり、文化をつくり、社会をつくる、と言います。言行一致した槙さんのこの言動に深い感動と共鳴を覚えるのは私一人ではありますまい。日本古来の大和魂と言うのか、古武士の、そう、武士道の心魂にも通底するものと私には思われてなりません。
最近の映画に剱岳・点の記、がありました。新田次郎の原作も読んでいたので判りよかったが、主人公の柴崎芳太郎や、宇治長次郎の、苦難を乗り越え、黙々と剱岳の頂をめざす姿は、心に残ります。登頂時に柴崎が長次郎に、先に山頂に立てというあのくだり、武士道の謙譲の美徳をも髣髴とさせ、山男の心をゆすります。ここらあたりは新田次郎の面目躍如といったところでしょうか、新田次郎という人もやはり槙さんと相通じ合うものがあるように思います。まったくこていさらんです。
山の古典にいいものがいっぱいあります。山書(さんしょ)というそうです。それぞれの著者の人となりや、時代背景、思想などその時代の様子がよくわかります。ウインパーの「アルプス登攀記」など人柄がよく出ています。
さまざまな山岳古典に接し、当時の時代背景に思いを寄せながら、現在の山々の登山体系を考えることは、大いに有意義であると考えます。
槙さんは言います。“雪の頂よ、お前こそは己を高きへ引き上げて呉れる恋人だ。そして断えず鞭打って呉れる教育者だ。”
一つ一つの山行を、大切に丁寧にやる、そしてより有意義な価値あるものに高める。登山は、いつも安全で楽しいもので有りたいし、山や自然に対してはいつも素直でありたいし謙虚でありたい。
平成21年8月27日 秋山 泉